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人の死と「あの日を忘れない」終わり

今まで「あの日を忘れない」を読んで下さって有り難う御座います。


去年の8月末、今お世話になっている会社の元社長で大好きな叔父さんがガンで亡くなってその後、11月中頃、実家の父が肺炎で亡くなり、そして今回の震災で妻を含め同級生、数多くの知り合いを亡くしました。
海で見つけた2人の水死体。
人の死についてすごくすごく考えさせられました。
愛猫もそうです。
今回その死を無駄にしないように、今まで同様、事実をありのままに載せていきますので、2人目の水死体の記事で気持ちが悪くなったら他の楽しい愛猫のブログを見て下さいね。





「あの日を忘れない」(完)



その後も忙しく飛び回っている内に4月12日になり青年の家から支援物資の運ぶ番が来て親友と運ぶことになりました。
午後、少し時間が空いたので沖に浮かべた船に手入れをしょうと海岸にある船外機を借りて湾を出てすぐの牡蠣イカダの固まった残骸の所に白ちゃけた物が一瞬、目に入ったので一回戻ってと言い戻ってもらい、よく見たら腐乱した遺体が、うつ伏せで足と手が下がって浮いていました。
頭は半分以上が抜けていて下ズボンはいていましたがシャツは肩までめくれ背中はむきだしの状態で茶褐色化し見た感じ70~80歳位のお爺さんかと思いました。

すぐ警察に連絡を取り、後を頼みましたが、警察から電話があり、すぐ来れないし船が無いので行けないとの連絡。
海上保安庁に連絡を取らせ、船の用事も済、帰りに200~300m位走った所でエンジンがストップし漂流してしまいました。

海岸に船のある人に連絡を取りましたが中々見つからず、そうこうしているとヘリが来ましたが遺体を見つけられずに飛び回っているだけです。
海上保安庁に連絡を取りヘリに大体の場所を教えましたが、わからずじまい。
今度は携帯の電池切れ、ヘリはスピーカーでこちらは手信号で○、×をして合図。

結局見つけられず、そうしている内に船外機の迎えが来て遺体の所へ行き、ここですと教えましたがヘリからレスキュウー隊が投下して遺体を収容するわけでもないし、結局、迎えに来てくれた人と3人でシートを使い船外機に積み込みました。

あの日から1か月たったので腐った悪臭が凄かったです。
でも、一か月前の遺体は収容出来なかったお詫びと妻を見つけてもらったお礼、一人でも家族の元へ帰ってもらいたい一心で収容しました。
タイミングよく海上保安庁の船が近くまで来たのでその船に積み込みました。
遺体をシートの上で海上保安庁の人が仰向けにしたら、顔は男女の判断出来無い位、変わっていましたが乳房の大きさから女性らしいとの事でした。
船には藤浜の海岸で見つかった毛布を掛けた一遺体がありました。

三日ぐらい過ぎて、あの遺体40歳ぐらいの女性で家族の元へ帰ったそうです。
妻が帰って来てくれた、あの嬉しさを忘れません。
この人も家族に帰ってくれて、本当に有り難うと思いました
。本人もどんなに家族に会いたかったのだろうと思うと「あ~よかった」と晴れ晴れした気持ちになりました。

忙しく動いている内に15日になり、前から千葉の親戚が賃貸していたマンションが、ちょうど空き、そちらに引っ越す事になっていました。
5トントラックで最初は息子の運転で走りましたが、菅生サービスパーキングで駐車しようと息子がハンドルをゆっくり切った瞬間、車がななめ後ろからぶつかって来ました。
そこで3,4時間足止め、もう最悪でした。
その後、私は千葉まで運転し一睡もしないで荷物を降ろして夕方すぐ宮城へ、16日の夜10時前だったと思いますが到着。
すぐ、爆睡。
あさ、夜明けと同時に息子の軽自動車で千葉に行く準備、残った荷物と妻(遺骨)とモモを乗せその脇に母、前に息子と私が乗って涙で親戚部落みんなに挨拶をして出発しました。
もちろん、別家の奥さんあの時の事は絶対忘れませんと涙でハグし別れました。
そのあと、志津川の親戚、入谷の私の実家に挨拶をして千葉に向かい細心の注意で安全運転で千葉に着きました。

その後、忙しく1か月が過ぎあの事故の割合が五分五分と言う事で相手は保険を使い此方は借りた車なので保険は使えず数十万の手出しです。
凄く、財布に痛かったでした。
でも、此方も相手も怪我とか命に別状はなかったので、高い物になりましたが、よかったです。
その後も、宮城で海が荒れ船が沖に流され、海上保安庁が見つけて下さったり、ハプニング続き、まだまだ、これからも色々出て来ると思います。

妻が亡くなり49日にこちらの方丈さんにお経をあげてもらい、しばらくは妻を思い出しては気が落ち込んだりしましたが、百ケ日の云われとして(この日からは涙を止める事、仏様がいつまでも成仏出来ないから)と書いてあったので百ケ日の日からは妻の成仏のため気分を少し変えたら、だいぶでは無いのですが死を受け入れる事が出来ました。



最後に妻に。
「妻よ、私が行くまであの世で好きなブログを書いたり、花を育てたり、早くに49歳で亡くなったお父さん、去年逝った叔父さん、私の実の父と色々話などをして待っててね」それまでサヨウナラ。

これがうみねことモモが見つかった経緯、これまでに私の身にふりかかった事々です。
苦労はどんな事でも受け入れられるし、自分のプラスになるのでこれからも頑張って妻の分、生きて行きます



これを読んで下さった、みなさんに読むに耐えない字とか表現が多々あった事、お詫び申し上げます。
私はこの程度ですが、部落に幼い女の子3人と旦那様、実の父を亡くされ、まだ、女の子一人が見つかっていない方、その他、大変な思いをされた方々が数えきれない程います。
被災された方々の思いを少しでもわかって戴けたらと思ってブログに載せました。
この震災を風化させたくないし私は忘れないし、皆さん身にも起こり得る事なので忘れてほしく無いです。

次回のブログからはモモのブログを載せたいと思います。
最後まで、付き合って下さったみなさん有り難う御座いました。

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最後の別れ

今回二男の事、妻の火葬、天国へ旅立ち、人の愛情について載せました。

自分が尽きるまでさようなら。



あの日を忘れない(4)


後は仙台に居る長男は友達越しに大丈夫だと確認出来ましたが、家から気仙沼の会社にかよっている二男の安否がわかりませんでした。
河口の近くなので駄目だと思いましたが長男が一週間位してネットで検索、本吉の避難所にはっきりとわかりませんが名前があるとの事少し安心しました。
テントに安置した妻達の遺体が青年の家にあるのを警察が役場から連絡なくて分からなかったそうです。
その後、自衛隊の車で50kmぐらい離れた旧豊里少学校に運ばれ、そこには戸倉の方だと聞きましたが遺体の検案の終わった人達が2、30人位だと思いましたが安置されていました。

また、会いに来るのはガソリンが中々買えないし私用で使える車が無いので、しばらくお別れです。

色んな手続き片付け、お世話になっている親戚の家や近所の家にホースで山から水をひいてあげたり(これだけで生活がだいぶ楽になりました)発電機からの電気工事をしたり、釜戸を作ったり、マキ運びをしたり、そうこうしていると二男が避難所から避難所に移動する車に乗って帰って来ました。
移動すると避難所から名前が消えるので心配でした。
でも、元気な姿を確認出来て嬉しかったです。
3月23日頃だったと思いますが車を借りれたので二男を妻に会わせるため連れて行きました。
遺体の数がまた増えていて棺桶の上にある写真で見るとほとんどの人の顔に何ヶ所か黒あざがあり、中には顔全体が一部を残して黒くなっている人もいました。
焼香台で全員に焼香し手を合わせ合唱。
この日に3月27日火葬に決まり、場所は築館のくりはら斎苑になりました。
親戚に連絡をとり、そうこうしている内にその日になり一番上の実の兄さんの仕事用の箱型トラックに荷台に最後のお別れなので少しでも一緒に居たかったので妻の遺体と子供達3人と私と5人だけにさせてもらいました。
そして、火葬場に着き火葬の順番が来ました。
ボランティアの方丈さん達7人でお経をあげて下さり、あの日以来お経をあげてなかったので本当に嬉しかったでした。
他の火葬場は方丈さんが、居なかったり居ても一人だそうです。
築館の方丈さん達は忙しいのに毎日のようにくりはら斎苑に来て心のこもったお経をあげていらっしゃるそうです。
妻もこれで安心して、あの世に旅立つ事が出来ました。

収骨が終わり津の宮に帰って来て別家にお世話になっている、お母さんの枕元に一晩おいてあげました。
次の日の朝、みんなが朝食を食べている時にまた、強い揺れが来ました。
その時、別家の奥さんが一人、家に居て、一番大事な物を持って外に出て、ぶるぶる震えてしゃがんで泣いていたそうです。
その一番大事な物とは妻の遺骨、それを聞いた時、涙が出て心の底からじ~んと来ました。
思っていても中々出来る事ではないです。
ましてや、真から地震の嫌いな人なのに安置した部屋に行って遺骨だけを持って逃げてくれたのですから会ってお礼を言いました。
本当にありがたかったです

その日の午後、余震がずっと続いているし、またいつ大きい揺れがくるかもわからないのでお寺だと妻も安らげて迷惑もかけないで済むし親戚からおばさんが志津川の大王寺に嫁いでいて知らない所でないので千葉に引っ越しするまで、そちらに一時あずかってもらう事にしました。







次回は、また水死体を見つけてしまいました。

その後も色々と問題が!!!

お詫び

皆様にコメントの事で大変ご迷惑をお掛けしました。
自分の勝手な見ると辛くなるからに対し、皆様のコメント出来ない辛さを考えないで本当にご迷惑お掛けしました。
最近、気持ちの切り替えが前より少し出来る様になってきたので皆様のコメント受けようと思います。
コメント見て、また落ち込んでブログの更新出来ない時は御免なさい。
無理せず出来るだけ頑張ってブログ更新していきます。

今回の内容は「再会」ですが別な意味での再会です。
悲しいけれども嬉しい、嬉しいけれども悲しい再会いです。




あの日を忘れない(3)





津波の震災を免れた親戚の人がモモが居るんだったら、センターは無理だから、うちにしばらく居たらと言われ、そちらにしばらくお世話になる事にしました。
もちろん、あの日以降電気水道ライフラインすべてありません、サバイバルです。
食事は毎日センターに上がって食べる事になっていましたので、そちらで食べていました。
14日の朝も夜明けと同時に車から流されたら、どの範囲に居るか頭の中でシュミレーションし一人で探しましたが
やっぱり見つからず9:00頃、志津川に行く船があるのでそれに乗船し親戚の人達の安否、妻の安否の確認等に行きました。
アリーナ、志津川中学校、志津川小学校と廻りアリーナに戻って来た時、実の兄と会い皆無事を確認出来ました。
数軒の親戚の安否はわかりましたが妻の安否はわかりませんでした。
午後3時近くに戻りの船に乗船し津の宮に帰って来ました。
そしたら、午前11時頃、部落の人達がその車から海寄りに50m位のそんなに大きくない梅の木に引っ掛かっていたそうです。
その上に瓦礫が乗っかっていて、しゃがんでフイッと横を見たら指先が見え瓦礫の中をよく見たら頭が見えたそうです。

その後、親戚であり私達の仲人をしてもらった家に綺麗に洗って化粧をしてもらった妻が冷たくなっていました。
白いガーゼを取り見た瞬間泣き崩れ号泣、悲しみと、いとおしさにほっぺたに手をさすり頭をなでたりし妻の感触を感じ、こんなに、いとおしく感じたのは今まで無かったです。
「見つかってくれて本当に有り難う、有り難う」と何度も言いました。
出来れば、自分が死んで本当に変わってあげたかったです。
泣けるだけ泣きました。

志津川だけでもまだ1000人近く見つかっていないのに海に流されないで陸で見つかって見つかっていない人達に申し訳なかったです。(その後、最終的に部落内の死亡者は男女小さい子供を含め8人でした)

無情にも再会時間は20分あるかないか位で、この後すぐ部落から妻を含め3遺体(全員女性)を海洋青年の家の仮遺体安置所(テント)に搬送しなければならないからです。
20分位だけでも位部落の人に見つけてもらって本当に、本当に嬉しかったです。

それだけでも、長く一緒に居れなくても十分です。
軽トラに乗せ、みんなが待っている所に行ったら11日見つかった2遺体が軽トラ2台で待っていてくれ、皆さんに「本当にお世話様でした、有り難う御座いました」とお礼を言いましたが語尾になるにつれて号泣で涙が出ではっきり言えませんでした。

そして皆さんから妻に温かい言葉を受け見送られました。
安置所には他部落の4遺体がブルーシートに包まれ並べられて安置されていました。
同じようにブルーシートで包んでいると支援物資を積んできたヘリが来て風でテントが飛ばないように抑えなければならなくて、一時中断
その後は具合の悪い人達を乗せて飛び立つまでしばらくかかりました。
飛びたった後また再開、顔だけは後で見れるように包んで、そこを離れなければなりません。
会うときは一言、管理の人に言って会うようでした。

その日の夜、見つかった嬉しさ亡くなった現実、一緒に過ごして来た日々の事とか色々考えて、なかなか眠れなく、その日だけ普段より回数多くモモが布団に入って来て腕に顔を乗せたり、あおむけになってさすってのポーズでゴロゴロとのどを鳴らしてくれていました。

妻がモモに乗り移って会いに来て慰めてくれているようで涙が自然と出て止まらなかったです。
夜中3時すぎに1時間位眠りについたら妻が夢に出て来てくれました。
バス停に亡くなった人達と一緒に妻が居ました。
無言で悲しい顔をしていた妻を車に乗せ迷惑をかけた親戚等に挨拶をしょうと車で走ろうとした瞬間に夢から覚めました。
やっぱり現実。

でも会いに来てくれて夢でも嬉しかったです。
普段の日は思っていても夢には中々出て来てくれないもので、その日の夜は不思議な体験をしました。
次の日からは、ももが布団に入ってくる回数は二、三回位に減りました。





今日の夢で妻が生きて帰って来てくれました。
とても明るく話も日常会話で出来ました。
迷惑をかけた親戚等に挨拶をしょうと車で走ろうとした瞬間また夢から覚めました。
また、やっぱり現実。
でも今日は妻から「あの日を忘れない」を載せろと言う事なのかもしれません。

今日は夢だけど話が出来たうれしさで頑張ろうと思います。

あの日を忘れない(2)

前回の続きで、
明るくなるにつれて刻々と全貌が見えてきました。
溜息と恐ろしさに身震いしました。
の次から載せたいと思います。



あの日を忘れない(2)



生きていれば来る妻が海岸に来ない?
なにかあったのでは!!
このままでは潮の流れが強くて船が危ないので5km位沖に避難している所、パンツ1つのうつ伏せになってお尻だけ浮いた水死体、男女の判別はつきません、合掌し、しばらく心の格闘をしました。
海水はかなり濁って腰から下は全然見えず、引き揚げようと何度も考えましたが、もし妻だったら気を失って海に落ちたかもしれません。
足の長さが妻と同じくらいの長さだったからです。
悩みました。
悩みました。
見ているだけで気が遠くなりました。
究極の状態です。
どうしても決断できず、「ごめんなさい」と合掌・・・・・一旦、水死体から離れ20分位、気を取り直して再度、今度は絶対船に引き上げようと思い探しましたが同じような瓦礫がいっぱいで探せませんでした。
後で凄く悔いが残りました、なんで引き上げてあげなかったのだろうと・・・
自分の無力さに後悔と自分に幻滅しました。

午後2時過ぎ頃、船外機に乗せられて陸に上がりました。
360度、凄まじい瓦礫の残骸ただ唖然!
家族は、義母以外は安否はわかりません。
妻はやっぱり行方不明の知らせ。
もしや、あの水死体!
凄く,凄く後悔しました、なんで引き上げてやれなかったんだろうと。
心が崩れました。

妻が車ごと流されるのを妻の母親がすべて見ていたそうです。
妻は11日に猫2匹を見つけケースに入れ車に乗せ3匹目が中々見つからず、ようやく見つけて車に乗せて発進させたとたん津波が来たそうです。
1度、車は前に流され引き潮で持って行かれたそうです。
母親は泣いて壮んで助けを呼んだそうです
車はトンネルの所に真横になって駐車場の屋根が乗っかって引っかかっていました。
もちろん我が家はありません土台だけが残っていました。
生きてくれと願い、部落内、近くに流れた家の瓦礫の下を探しましたが見つからず、夕方になり、どこもかしこも、陸の孤島で会社に行っていた3男が志津川から歩いて20kmある道のりを朝に出発し瓦礫と寸断された道、ほとんどの橋が落ちて渡れない川を渡りやっと帰って来てくれて顔を見た瞬間、義母と3人で、再会できた嬉しさで泣き、むしょうに涙が出ました

暗くなって来たので皆で部落内から拾い集めた物で部落のセンターで夕飯を食べました。
その後、早めに寝る事になりましたが寝れない状態です。
13日の朝も探し見つからず、
10時ご頃だったと思います妻が乗って逃げようとした車から捜索してくれている人達が、モモ(猫)見つけてくれました。
おそらく、布製のバックに入っていたので、車の後部のガラスが割れて海水が半分ぐらい入って来たけど妻とプラスチックケース2つに入れられた猫達(ラン、柚子)が外に流され、布製のバックのショルダの部分が、どこかに引っかかって座席の下に居たものと思われます。
モモを連れて来られ見た瞬間、元気な姿を見て3日も空腹と寒さと恐ろしさに我慢をして来たのと妻が命を懸けて助けた命なのだなと思うとバッグのまま握りしめ、涙が止まらなかったです。





今回、私記を書いて会社に行く途中にも思い出して震災前は涙ぐむのは無かったのですが、震災後涙腺が緩くなって涙ぐむのが多くなって来ました。
息子と車で通勤なのであくびで誤魔化して目を拭いたり、横のけしきをしばらく見たりしてごまかしています。
男として少し恥ずかしいのですが仕方ないと思っています。

次は再会です。

あの日を忘れない (1)

最近、少しだけ心が落ち着いたなと思い津波の事を自分で忘れないように私記を書き始めましたが、モモが見つかる辺りまで書いて、その頃の事を思い出し気分が滅入って、しばらく、ブログの更新を怠っておりました。

うみねこが亡くなったこれまでの経緯、モモが生存した経緯など知りたい方もいらしたので、載せる事にしました。

東日本太平洋沖地震で沢山の被災者、亡くなられた方々います。
大変な状況です。
被災した皆様にもお見舞いとお悔やみ申し上げます。

私以上に想像を超える思いをした人が沢山、沢山います。

今回、思い切って皆様にその頃の状況を知っていただければ災害って本当に恐ろしい物なのだな~と感じていただければと思って、まだ書き終えていませんが、名前通り 海、猫の日誌「海・猫・日誌」なので、ブログに載せようと思いました。

もう、震災の事はヤダと思う人は読まないで、ほかの皆さんの楽しいブログを見て下さい。

読む方はこの下からタイトルから読んで下さい。








あの日を忘れない




23年3月11日、この日は2,3日前から我が家には合わない豪華なIH.食洗機.電動下降上昇トレイ.自動給排煙機.食器棚等付きのL型システムキッチンを自分で取り付けていました。
その日の夕方から使える状態になりました。
ところが、2時半頃の大きな揺れ台所に居られず直ぐ外へ、外へ出ても、ただならぬ揺れ。
僕は妻に「海岸にリフト、養殖資材等を片付けに行ってくる」と行き5分位片付けて居る所に妻が来て「積んだ資材は軽トラで持って行くから、お父さんは皆が船を沖に出航しているから船を出したら」と言われ、そうだな、それじゃ後頼むな・・・と一言!妻へ
その一言が最後の会話になりました.....。
この様な結果になるのだったら船なんか要りませんでした船を津波から守るため出港しなければよかった。

船を出航して10分位走らせていたら船のすぐ後ろ5~10m位の所、一直線上にのびた広範囲のざわめいた波が陸に少しずつ離れていきました。それが引き潮と津波のまざった所だったかもしれません。
その後、知っている船同士つないで情報交換、電話も通じません。
その時も地震が何度も海底から海水を通して船にも伝わって地震の恐ろしさを知りました。

だんだん辺りが暗くなって陸には明かりが1つもありません、あるのは火事の明かりが所々にありました、瓦礫も少しずつ増えてきました。
夜中の12時頃、霜が降りて来て非常に寒かったです。家族が心配になって一人で船を船首からリモコン操舵で大量の瓦礫を避けながらAM3時頃、津の宮の海岸沖に着きましたが隙間がない瓦礫で湾内には入れません。もちろん電気の明かりはありません。
車の明かりが1、2台、部落の消防車の明かりだと思います。
このままだと、船の循環水にごみが詰まってエンジンが焼ける可能性あるので近くの頑丈そうなイカリに停泊しエンジン停止、エンジンルームに入って仮眠をしょうかなと思った所に陸から男の人の声が聞こえました。
「船で出た人達は大丈夫ですか」の声、「大丈夫だよ」と返事し、「皆は大丈夫なの」と聞きなおしたらたら「把握できていません」と帰って来ました。
気を使って本当の事を伝えなかったのです。後でわかったのですが、その人の母親も津波で亡くしました。
AM4:00頃、辺りはまだ暗いので明るくなるまでエンジンルームで待ち、明るくなるにつれて刻々と全貌が見えてきて溜息と恐ろしさに身震いしました。





この、次が自分で書いていて辛くなった文章です。

日にちをおいて、「あの日を忘れない」(2)はモモが見つかるまでを載せようと思います。

これを載せている間は個人の考え、想像におまかせしますので

「あの日を忘れない」を連載して載せている間はコメントは見ると辛くなるので、しないで下さい。

勝手な事を言ってすみません。


自己紹介

      【うみねこ】       宮城県在住    自然と猫にどっぷりと浸かった毎日        【桃子】     アメリカン・ショートヘア       シルバータビー     2007年2月16日生まれ     甘えん坊のおねだり上手     ちょっとメタポな女の子 DSC03350.jpg         【蘭】        ラグドール       ブルーバイカラー      2008年6月21日生まれ     怖いもの知らずなお転婆娘        脱走歴あり

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